Music for Orphans

音盤収集記。

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核、審美、思想──音楽の収集とそれ以降のリバイバル

0.初めに

この一連の文章では、様々な議論を生みがちな音楽ジャンルという概念を先ず個人的に定義し、それを前提に聴者と作家の相互関係によって起きるリバイバルという現象について記述し、その上でシューゲイザー、つまり単なる形式に留まらず、それ以降の深層に普遍する、若しくは偏在する審美眼と思想を抱えた音楽の拡散について記述していきたい。短い文章なのでお付き合い頂ければ幸いです。

 

1.文化圏=カルチャーの定義と名付け

初めに、一例としてシューゲイザーというジャンルの成り立ちについて検討する。

シューゲイザーの音楽的な勃興の起点となったのは間違いなく、1981年のCocteau Twinsの結成、そして翌年の『Garlands』のリリースと言えるだろう。現在ドリーム・ポップとして解釈されるその音楽は最初期から現在のシューゲイザーに渡る普遍としての幻想性やイーサリアルと呼ばれる天蓋を志向する様な透徹した感性を既に備えている。そしてこのアルバムにはゴシック・ロックの部分的な影響が聴き取れ、初期My Bloody Valentine(以下MBV)やLush、現行のポスト・パンクシューゲイザーとリンクする作風だがこれは余談である。

それ以降として、1985年にMy Bloody ValentineとCranesの結成、1986年にA.R.Kaneの結成、1987年にChapter House、Pale Saints、Lushが結成され、MBV『Suny Sunday Smile』『Ecstacy』がリリースされ、1988年に現在のシューゲイザーの原型であるMBV『You Made Me Realize』『Isn’t Anything』がリリースされ、1980年代のこのジャンルの基盤が築かれる。

そして運命の年である1991年、MBV『Loveless』、Slowdive『Holding Our Breath』、Chapterhouse『Whirlpool』、Curve『Doppelgänger』、Black Tambourine『By Tomorrow』のリリースを迎え、それに伴った聴衆と共に一つの文化圏=カルチャーの始まりを迎える。

重要なのは、各々のバンドが固有の音楽性を持っており、個に強く立脚しているという点だ。その音楽の状況やシーンに対して個として直面しているという事が肝心なのだ。そのミュージシャン達が作る音楽が形成する、単なるタグや枠組みとそれ以降の集合では無い、ミュージシャン=音楽と聴衆の相互作用が作り上げる文化圏=カルチャーこそが一つの音楽ジャンルである、とここで個人的に定義したい。

シューゲイザーという語が歴史上初めて用いられたのは音楽雑誌『サウンズ』に掲載されたMooseのライブへのレビューであり、それ以降皮肉な意味合いを持ってその語が用いられ、ジャンルの名称として定着した、というのはWikipediaにも記載がある有名な話だ。そのエピソードが示している事は、始まりの名付けとその後のミーム的普及、それが特定のカルチャーと結実する事による名の受胎、そしてその後の音楽(とそれに伴う所作)へのイメージへの影響だろう。始まりは蔑称に近い命名と皮肉を内包した普及だが、それが普及するに従って例えばライブ・パフォーマンスに特定のバンドの模倣としての所作と同時に始まりのイメージとして影響する事が名という概念の意味だろう。それは元々蔑称だったから、という安易な検討で片付けられるものではなく、聴衆と作家が相互に形成してきたイメージとスタイルのであり、逆説的に音楽の一つの表象となる。つまり、ジャンルという概念は音楽を縛る鎖でも単線上の進化論に基づいた名でもなく、文化圏=カルチャーの表象であり、イメージであり、ある種の体現の為の名なのだ。間違っても、そのジャンルを掲げてコンフォーミズム以降の音楽を展開する事についての言及ではないが。

 

2.音楽、そして文化圏の核と特定ジャンルのリバイバル

 

第一章で言及した通り、シューゲイザーというジャンルはそもそも1991年の各々の個に立脚した音楽が母体となった一つの文化圏=カルチャーである。しかし、単なる同好の集合であればシーンや文化圏、カルチャーは成立しない。では何が彼らを結びつけていたのか。

ここで言及したいのは始原となったバンドやルーツについてでは無く、音楽が内包するある種の普遍、もしくは偏在である。

シューゲイザーの共通項として論拠を省いて語るとするなら、挙げられるのは遠さ、つまり対岸を見つめる心性、聴者を誘う幻想性の二つが先ず挙げられるだろう。当然形式は音楽の核心の一つだが、スタイルの変貌がその文化圏からの離脱を意味するか?という問いが生まれる。アンビエント・ドローン以降のシューゲイザーを提示したLovesliescrushingはバンドという形式から完全に逸脱しているが紛れもないシューゲイザーである。Buddhas On The Moonの2007年作もそうだ。ハードコアパンクとの融合を果たしたNothingもサブジャンル上の命名こそあれ紛れもないシューゲイザーだ。ポスト・パンクの影響を受けているバンド群もそうだろう。Jefre-cantu Ledesma『Love is A Stream』もエクスペリメンタル・ミュージック以降のシューゲイザーとして考えられ、二つの圏を跨ってはいるが、シューゲイザーという文化圏から生まれた音楽と捉えられる。

他ジャンルに眼を向けると、例えばデスメタルの無数のサブジャンルは音楽性の違いを意味するが、大枠の文化圏という観点で検討すると同じ位相に属している。論拠としては弱いが、個人的に音楽の文化圏の形成としての核を成すものは、形式に寄らないある普遍的な要素、そしてそれを成す、散逸こそあれどこかで普遍を備えた、若しくは偏在する、審美眼と思想にあると考える。言い方を変えれば共有された一点だ。その考えが特定ジャンルのリバイバルという、単なる一過性の流行でもシーンの周期でも無い、そのジャンルの変貌と更新とモダナイズ、及び旧作への新しい眼差しを持った再評価を内包した必然的な、またはディガーと作家の情熱と相互作用に基づいた運動の基盤の一部を成しているのだろう。

つまりリバイバルは聴者側のある審美眼に基づいた収集と作家側に普遍的に備わった、若しくは偏在する美学と思想に基づいた作品の収集と体系化の相互性を持った運動なのである。特に、現行のニューエイジリバイバルにその考えが散見される。

そして、その概念を受容した聴者に、隣接する審美眼と思想を持った他ジャンルの作家への目配せが生まれるのは必然で自明であり、また、音楽の発展と拡張に伴う初期の形式からの逸脱も必然であり、他ジャンルとの融合以降のその審美と思想の提示も必然だろう。これは音楽の健全な発展の姿であり、例えばメタルという音楽が強くその傾向を見せ、若しくはその様な状況にある。ブラックメタルデスメタルサブジャンルの細分化やシューゲイザーブラックメタルの蜜月であるブラックゲイズがまさにそうだ。

 

3.終わりに

恐らくジャンルについての認識についての平行線を辿る議論の背景に、ジャンル=文化圏=カルチャーという等式の認識が欠落している、もしくは(確かに便利ではあるが)単純にリスナーのディグの為のタグや枠組み、及びその背景にある単なる集合としてのシーンという認識を抱いてしまっているという不備があると思われる。

恐らく、それと私見ではあるが文化圏=カルチャーへの名付けであるという事はそこには聴者と作家が持つ審美眼と思想の相互反応、及び名の持つ力があると思われる。

ただ、正直ジャンルについてそこまで意識的にならない方が楽しい音楽ライフを送れると思うし、僕の文章は余談として受け取って下さるとありがたいです。ジャンルは単なるタグではなく文化圏の総称であり、リバイバルは一過性の流行ではなく再定義、再収集、更新、拡張というそのジャンルへの見方を一変させる審美眼と思想上の運動という事が言いたかっただけでした。

 

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