Scapura Élisée,

音と言葉の収集記、美しいものについての言葉

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クァジーモド/クァジーモド全詩集(岩波文庫)

 

前提として、私はクァジーモドの詩が好きで愛していて、大きく影響を受け、救われています。

傷、付いてしまった傷、傷と生、という意味で、生と美、戦争体験の傷と言語的変性の、生と闘争の詩篇である。

例えば終末的な美的感覚と私語に変性させる生の営為としての短歌、という意味での塚本邦雄に救われて私的に大きく影響を受けている事や、パウル・ツェランの私語/詩語、失語と記述の相克的闘争と、そこから美しさと尊厳に向かい、生を肯定し、生きてゆく為の営為としての闘争と美の詩篇、という詩歌の水脈があり、私は救われる。

こととして、その忘却を防ぐ河として、

クァジーモドもその水に連なる堕ちることの痛みを包む柔らかな布の言語、痛みの緩和と変性の詩であるだろう。

 

同時に技法的側面として、フランス派記号論以降のシニフィエシニフィアンの自明とされる対応性の神話の崩壊、以降の現代詩の言語、射程があるが、クァジーモドの言語、詩語/私語の特異性は、構文、例えば接続詞やモチーフ間の距離、文法的ギャップ/スライドをあまり多様しないにも関わらず、明らかに詩と真理の射程として抽象性が担保されている事である。では、それは何処から来るのか。恐らく遠くを見つめている、美と思想として、傷の変性と処理として。非在の場を見つめることは美しく、同時にそれは詩における場所、空間に反映される。

 

クァジーモドに大きく影響を与えているであろうウンガレッティの詩は、地上の闘争の撃たない銃(声)の言語である。

クァジーモドの言語は、天上から地上を見る、眼と音楽の耳、ふれる手と指先の言葉であり、

 

この詩篇群で刻まれる場所の殆どは存在しない、非在である、具体的な場所を書いていても、どこか現実ではないとこにあるように響く。

ではなにが実在性から、言明されずに否定されるリアル/リアリズム、地上から離れているのか。

恐らくは行間のギャップ、連続性、モチーフ、その点の叙情、叙情の音楽的進行、その進行的なグラデーション、の話であり、花のモチーフのスライドされた、私語としての多層的なシニフィエと、それら花々の反語的な、比喩的な、何かに添えられるものとしての意味であり、まだゆっくり考えている。好きな詩集だから。

同時に、前述の音楽的進行、詩のリズムと叙情、(非小説的な意味での)ナラティヴの音楽的進行は、身体から離れていて、読者を身体から離れさせる。

それは読者を救うだろうし、私が好きな連続でもあって。同時に、クァジーモド自身の地上と惨禍への忌避や、詩人の傷の処理でもあるのだろう。多くの傷は身体を伴うか、身体に反映される。それら身体から離れる事も、この詩と私語の天体から地上を見るような言語、地上から離れるような、詩の非在の空間や、痛みを薄める安らぎや、彼自身の傷の緩和や変性として、美しいものとして刻まれている。

 

天上に身体はない。だから地上ではないところとして、痛みの緩和や救済や、安らかなものの隠喩とイデアのように綴られる、自明な文脈と詩歌の水脈、私語の天上、詩歌の天上がある。

それは必ずしもキリスト教、その他宗教のものではない。塚本邦雄が逆信仰、と呼ばれるロジックでも証明していて、その他の言説、比較神話やサタニズムの文献でも引ける刻印がある。

そもそもサタンは天国から堕ちてきたものである、から、

空も天上も全体的に神々のものではなく、世界は既にニーチェであり、私たちの安らぎと、安心と幸福の庭として天があってもいいだろうし、多くの詩歌の天、天体は、そのような非宗教的な、わたしたち人間ではないかもしれない第二の母語を記述して、解するひとや人間の領野である。

少なくとも、詩歌ではそのような天、そのような庭を描くことが出来る。

 

クァジーモドはそこから地上を、人間や傷を見ていて、それらは詩/私語のなかで、として、痛みや墜ちることを緩和するように、美しいレトリックや花々で包まれる。

この詩篇の中の死は反語的な生の肯定で、何故クァジーモドが生を強く肯定する事を前景化させたのか、というと、やはり戦争、戦争体験で、その意味で本質的な反戦詩であり、非在の場所を描こうが、社会を描いてリアルであるように見えても、このような不動性、悲劇の不動性に抗う言語/私語/詩語が、現代詩の中核であるだろう。それはパウル・ツェランの美と闘争の私語が現在の現代詩に大きく影響を与えていることもそうで、塚本邦雄が戦後前衛短歌をある意味で構築した結晶である事と近しく、アウシュビッツのような言表が難しい悲劇に国境はない。

それらの傷なのか傷跡なのか、もう分からないようなものについて思考する、私語/詩語を、ためらいながら静けさとして、ためらい傷に似たものとして書くことに現代詩の中核性のひとかけらがあり、だから現代詩をずっと好きなものとして、読んだり記述して、綴ったりしています。僕は一応詩人で歌人なので。

 

今後もこの詩集はずっと読むでしょうし、原書で読みたいので、イタリア語を勉強しようかなぁとか。

最近は回復しながらゆっくり休みつつ生きていて、文芸批評(のようなもの)もたまに書いていきます。制作にも反映される、言葉の感受と読む深度、深く、ふかく潜って読んで触れること、そこにハイデガー美学で綴られるような真理の伏蔵性、伏蔵された真理があり、少なくとも、その詩人や歌人にとっての、そこから生まれるのが詩語/私語なのでしょうし、そういうものに触れることが、大きな救いになっていて。だから音楽や文学が好きで。

そこに触れて読むことは、好きな詩人や歌人への敬意と愛情であり、僕自身の文学に限らない、音楽や映画、その他の芸術への倫理でもあります。

その意味で批評と制作は、音楽や文学、他の芸術の分野で強く紐付いているのでしょうし、その意味で批評と実作を並行してやっているのは僕の意思として、縊死しない為の安らかなことで。

なので、今後も色々実作、詩や短歌、音楽や他の諸々や、批評を公開していこうと思います。